そういわれると
多くの人は、
なにか特別な感覚や状態を
探そうとします。
けれど、
気づきは
探して見つかるものではありません。
なぜなら、
探しているその時点で、
すでに在るからです。
気づきは「現れるもの」ではない
考えは現れます。
感情も現れます。
身体感覚も現れます。
でも、
気づきは現れません。
それは、
- 出てきた
- 強くなった
- はっきりした
という種類のものではないからです。
気づきは「場所」ではない
気づきは、
- 頭の中
- 胸のあたり
- 身体のどこか
に「ある」ものでもありません。
場所を探した瞬間、
それは
見られている対象になります。
けれど、
気づきは
見られている側ではなく、
見えている側。
気づきは「働き」でもない
集中しているとき、
静かになったとき、
リラックスしたとき。
それらは
気づきが「強まった」ように
感じられるかもしれません。
でも実際には、
- 集中がほどけても
- 思考が騒がしくても
「気づきそのもの」は変わっていません。
では、気づきはどこにあるのか
答えは、
少し拍子抜けするかもしれません。
気づきは、
どこかに「ある」のではなく、
すでに、すべてが起きている「前提」
考えが起きていることに
気づいている。
感情が動いていることに
気づいている。
今、
この文章を読んでいることに
気づいている。
それが、
気づきです。
なぜ、見失ったように感じるのか
気づきが
消えたわけではありません。
ただ、
- 考えに巻き込まれたとき
- 評価や判断が前に出たとき
気づきが対象と混同される。
「気づいている私」が
前に出た瞬間、
気づきそのものは
背景に下がります。
でも、なくなってはいません。
気づきに戻る必要はない
多くの教えは、
「気づきに戻りなさい」と言います。
でも実際には、
戻る必要はありません。
離れたことがないから。
必要なのは、
「 気づきを何かにしようとする 」のを
やめることだけです。
もう一度、問いに触れる
気づきは、
どこにあるのか。
それは、
- 考えより前
- 感情より前
- 判断より前
そして、
「前」という時間の概念さえ
必要としないところ。
すでに、
ここで、
静かに、
在り続けています。

