思考円という構造に気づくと、
多くの場合、ある反応が起こります。
「ここから出なければならないのではないか」
「この状態を超える必要があるのではないか」
思考円が
“問題”として見えはじめると、
それを解決しようとする動きが
自然に立ち上がります。
けれど、
その反応そのものが、
すでに思考円の働きでもあります。
思考円は、
壊す対象ではありません。
なぜなら、
思考円は
人が世界と関わるために
必要な機能として
形づくられてきた構造・OSだからです。
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考えること。
判断すること。
計画すること。
これらは、
生きる上で欠かせない働きです。
そのため、
思考円を「なくそう」とすると、
別の思考円が
その上に重なっていきます。
「壊そうとしている私」
「超えようとしている私」
「正しい状態に行こうとしている私」
こうして、
円はより精巧に、
より見えにくくなっていきます。
ここで重要なのは、
円を消すことでも、
外に出ることでもなく、
円が円として認識される位置がある
という理解です。
その位置は、
新しく作られるものではありません。
どこかに到達して獲得するものでもありません。
はじめから、すでに「ある」
その位置では、
思考は引き続き起きています。
考えも、
判断も、
計画も、
ただ、
それらが
「現実のすべて」
「私そのもの」
として扱われなくなります。
思考が現れても、
それに従う一体化がありません。
思考円はそこにありながら、
絶対的な位置を失う
ということが起こります。
このとき、
何か特別な体験が
起きるとは限りません。
静けさを強く感じるとも限りません。
むしろ、
とても普通で、
何も変わっていないように
感じられることもあります。
それでも、
ひとつだけ違いがあります。
思考が、
世界を支配する
唯一の枠組みでは
なくなっている。
それだけです。
ここで伝えたかったのは、
「どうすれば壊せるか」ではありません。
思考円は、問題ではありません。
構造として、それが起きている
という気づきというスキマがあればいい
それだけです。


