“自然な自分”でいられるとはどういうこと?

癒し

「自分をちゃんと管理すること」
に使っていた力を、少し抜くことができた


それが「自然な自分という感覚」の中身なのではないでしょうか。

人と一緒にいるとき、

「この人とは自然体でいられる」
「この場所では、なんだか自分でいられる」

と感じることがあります。

反対に、

嫌な人ではない。
会話もうまくできている。
その場にもちゃんとなじめている。

それなのに、家に帰るとどっと疲れている。

この違いは、どこから生まれるのでしょう。

「自然な自分でいられる」とは、
いったい、どういう状態なのでしょうか。

「自然な自分」って、本当の自分?

「自然な自分」というと、

飾らない自分。
ありのままの自分。
本当の自分。

そんなものを想像するかもしれません。

でも、人は誰でも、相手や場所によって少しずつ振る舞いを変えています。

  • 仕事で話すときと、家族と話すとき。
  • 初対面の人といるときと、親しい友人といるとき。
  • ひとりでいるとき。

全部まったく同じ自分でいる人のほうが、むしろ少ないでしょう。

だから、

「相手によって自分が変わる=自然ではない」

とは限りません。

では、何が違うのでしょう。

「調整している量」に注目してみる

前回の記事では、自己監視(self-monitoring/セルフ・モニタリング)について取り上げました。

人といるとき、私たちは多かれ少なかれ、

  • 相手の表情を見る。
  • 場の雰囲気を読む。
  • 自分の話し方を変える。
  • 相手に合わせて振る舞う。

という調整をしています。

それ自体は、ごく自然な
「社会的行動」です。

でも、人によって、そして相手や環境によって、

そのために必要な「調整の量」は違う

のかもしれません。

たとえば、

「今の言い方でよかったかな」
「話しすぎていないかな」
「つまらなそうにしていないかな」
「もっと楽しそうにしたほうがいいかな」
「ここでは、こういう自分でいたほうがいい」

そんなふうに、

相手を見る → 自分を見る → 調整する → また相手を見る

という処理がずっと続いている。

外から見れば、とても自然に会話しているように見えるでしょう。

でも内側では、かなり忙しい。

「できている」と「自然にできている」は違う

これは、ASDの「社会的カモフラージュ」を取り上げた記事でも見てきたことです。

社会的な場面で、

会話できている。
笑えている。
周囲になじめている。

だからといって、

その人がほとんど負荷なく、
それをしているとは限りません。

周囲を観察し、学習したパターンを使い、自分の反応を抑えたり調整したりすることで、「自然にできているように見える」こともあります。

そしてこれは、ASDだけに限った話として考えなくてもよいでしょう。

私たちはそれぞれ、

人といるときに必要になる
「自己調整の量」が違います。

「自然な自分」は、調整ゼロではない

だから、

「自然な自分でいられる」というのは、
まったく相手に合わせないことではないのだと思います。

好き勝手に振る舞うことでもありません。

人と人が一緒にいれば、お互いに多少は調整します。

むしろポイントになるのは、

自分を調整し続けなくても、
関係が壊れないと感じられること。

少し黙っていてもいい。
うまいことを言わなくてもいい。
テンションを上げなくてもいい。
すぐに返事をしなくてもいい。

ちょっと変なことを言ってしまっても、なんとかなる。

相手と意見が違っても、関係そのものが危険になるわけではない。

そんな余白がある。

そのとき私たちは、

「自分をちゃんと管理すること」
に使っていた力を、少し抜くことができた

それが「自然な自分という感覚」の中身なのではないでしょうか。

神経系から見る「自然体」

SHAlicaでは、

「私は人づきあいが得意か、苦手か」という見方だけではなく、

「この神経系は、
この人、この場所でどう反応している?」

というところを見ていきます。

ある人といると、

  • 身体が固くなる。
  • 声のトーンを調整する。
  • 表情をつくる。
  • 言葉を慎重に選ぶ。
  • 沈黙を埋めたくなる。
  • 相手の機嫌をずっと確認する。

一方、別の人といると、

  • 沈黙していても平気。
  • 呼吸が自然にできる。
  • 思いついたことを、そのまま話せる。
  • 「どう見られているか」を忘れている。
  • 身体がゆるんでいる。

もしそうだとしたら、

「自然な自分」は、頭のなかに隠されている本当の人格というより、自分を過剰に管理しなくても大丈夫なときに、自然に現れてくる状態

として捉えることもできそうです。

「誰といても自然体」を目指さなくていい

ここも大切なところです。

どんな相手の前でも、どんな環境でも、

「私は自然体でいられなければ」

と思う必要はありません。

初対面の人。
仕事上の関係。
緊張する場所。
自分を守る必要がある関係。

そこで多少、自分を調整するのは
不自然なことではありません。

むしろ、その場に合わせて調整できることが、
自分を守ってくれる場合もあります。

だから、

「調整している自分=偽物の自分」

にしなくていい。

見るとしたら、

どこでも調整し続けなければならなくなっていないか。

のほうなのだと思います。

「私は誰といると、調整が少なくなる?」

そこで、自分にこんな問いを向けてみます。

私は、誰といるときに自分をたくさん調整している?

そして、

誰といるときには、その調整が少なくなる?

人だけではありません。

どんな場所?何人くらい?

オンライン?
対面?

静かな場所?
にぎやかな場所?

話しているとき?
一緒に何かをしているとき?

沈黙があってもいい関係?

「自然な自分とは何か」を頭で探すより、
自分を調整する必要が少なくなる条件を探してみる。

すると、自分に合った人との距離や環境が、少しずつ見えてくるかもしれません。

自然な自分は、
「つくる」ものではないのかもしれない

「もっと自分らしく生きよう」

「ありのままの自分になろう」

そう言われると、

またひとつ、目指すべき「理想の自分」が増えてしまうことがあります。

でも、本当は逆なのかもしれません。

自分らしくなろうとするのではなく、

自分を監視する量が減る。
自分を説明する必要が減る。
自分を守るための調整が減る。

そうすると、

そのあとに残っているものが、
そのときの自然な自分なのかもしれません。

だから問いは、

「本当の私は誰?」ではなく、

「私は、どこで、誰といるとき、
自分をそんなに調整しなくていい?」

そこから始めてもいいのだと思います。