気づきを感じようとすると、
どこかに「それらしきもの」を
探してしまうことがあります。
静けさ
広がり
あたたかさ
けれど、
それらを見つけた瞬間、
どこかで違和感が生まれます。
「これは、本当に“気づき”なのだろうか?」
まず、対象とは何か
対象とは、
- 見えるもの
- 感じられるもの
- 考えられるもの
- 捉えられるもの
つまり、
気づかれている側
観察されている側客体です
考えは対象(客体)です。
感情も対象(客体)です。
身体感覚も対象(客体)です。
それらはすべて、
見られています。
気づきは「見られている側」ではない
気づきは、
- 見えている
- 知られている
- 気づかれている
その働きそのものです。
もし気づきが
対象になったとしたら、
「気づきを気づいている何か」
が、さらに必要になります。
でも、それは際限なく後退してしまいます。
「見ようとした瞬間」に起きていること
気づきを
見ようとした瞬間、
実際には、
- 静けさ
- 空間感
- 身体の感覚
といった 別の対象 が前に立っています。
そしてその対象を、
「これが気づきだ」
と、ラベルづけしている。
けれど、気づきそのものは、
そのラベルづけが
起きていることを
すでに照らしています。
うしろの正面という構造
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正面とは、見ている方向
うしろとは、見ている〈ところ〉
うしろの正面とは、
見ていることそのものは、見えない
という構造をそのまま言っています。
なぜ「対象にならない」ことが重要なのか
もし気づきが
対象(客体)になってしまったら、
- 得る/失う
- 深める/浅まる
- ある/ない
という 評価の世界 に入っています。
すると、
「 正しく気づけている 私 」
という新しい自己モデルが立ち上がります。
それは、気づきではなく、
また別の立ち位置が立ち上がっているだけです。
気づきは、いつも失敗しない
気づきは、
- 途切れない
- 間違えない
- 鈍らない
なぜなら、
失敗や評価が、
すでに
気づきの中で
起きているから。
「気づけていない」と
思っているその考えも、
ちゃんと気づかれています。
だから、することは何もない
気づきを
対象にしないために
何かをする必要はありません。
ただ、
探していることに気づく
それだけで、
構造はほどけます。
もう一度、問いに触れる
気づきは、
なぜ対象にならないのか。
それは、
すべての対象が
すでに
気づきの中に
現れているから。
そしてこの理解は、
新しい何かを
与えるのではなく、
探す必要がなかったことを
静かに思い出させます。

